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プロセスの途中

とりあえず 懸命に雑談してます。

意見を受け入れること

時々 他人にコメントする時があります。

他人に影響を及ぼそうなんて大それたことは思いもしません。

コメントしてあげよっ って感じでしょうか。

 

あえて 絡んであげている わけです。

(スルーが基本の世の中ですよ ありがたく思ってもいいよね ぐらいの行為です。)

 

もちろん今はそんなこと思いもしませんが・・・

以前は そー思ってました。世間知らずも甚だしかった。

 

 

その場合 いろいろな反応があります。

 

 

 

感謝されること

コメントを否定されること

無視されること 

 

いろいろです。

最初は 教えてあげようとか 上から目線気味だったことは否定しません。

ありがたく思え感があふれでていたのでしょう。

 

ぶろぐを書いているぐらいですから 自分の意見が強いので

 

 

でもね いろいろ経験していくうちに 他人は他人だって 割り切れるようになりました。 

だって なにもかも違いすぎるから

それに レビューするようなことになれば 何様?となるのは 当然です。上司でも 出資者でもないのですから その立場にないわけです。

 

僕が正しいと思う事が 正しいとは限らないな と思う事が何度もありました。

その人による わけです。自分の尺度が世間からずれている事がわかればわかるほど  人に意見したら恥をかく のではと思うまでになりました。

自分の常識は他人の非常識ということがやっとわかった。

 

 

なので その中で 感謝されたり 意見をとりいれたり それに対して 

反応があれば さらに 関係は深まるわけです。コメントの内容かかわらず 返礼する できた人も少なくありません。

 

 

 

リアルでは 特に他人から 何かを言われた時  どうしても 何ですか?となりがちは時代ですが 自分は できるだけ 感謝し 受け入れるようにしてみます。

そうしてみたら といわれたら それが 違うと思っても 一応してみるように努力します。

 

自分の主観が正しいとは限らないですから

 

発信なり 行動して 世の中に受け入れられ、反応が返ってくる

それは 喜ばしいことです。

しかし コメントなり いいねもなにもない場合も多いわけです。

 

それでも それが 正しい世の中の反応というものですから

反応がない という 反応も 受け入れるわけです。

 

 

進言したら 逆切れして 殺されたりするような世の中になってしまいました。

タイミングと言い方が大事であることは否定しません。

しかしながら それがさらに 誰も いわない社会に なっていくのです。

それが 健全とはいえないでしょう。

 

 

言ってもらえるうちが花です。

言ってもらえない というのは どうでもいい 以下なのです。

存在自体が そういうことなのです。

 

若ければ どうでもいいと思われていたり 言っても聞かないから しかたないとさじを投げられていたりします。

年老いている場合は どうでもよかったり かば と かかわるだけ損というロジックだったりします。

 

なので 関わりたく無い場合にあえて ばかと関わったら損と意図的に自分を演出することはあっても 

そーおもわれないように そー思われてないか 気おつけています。

 

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