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プロセスの途中

とりあえず 懸命に雑談してます。

長文 短文

メール文化は衰退しきっている。

ブログも実は 旧メディアに属するようになってしまった。

(ブログサービスの多くが撤退からもわかる)

いつの間にか主役は LINEやチャット系

正直 長文はうざい。

これみんなそーでしょう。

自分がやっと気づいたくらいだから 勘のいい人ならとっくにわかっているよな状況だけど

 

届いているかどうかわからない

読んでいるのかさえわからない。

読んでも 最後まできちんと読んでいるか 理解しているかどうかわからないものに

精だして カキカキするのって  どーなのよ的な

届いていなければ 表現は意味をなくす。そして みな 離れていった。

動画は YOUTUBEよりも 短時間動画 みてらんね^っーのということらしい。

 

企業のホームページは チャットサービスが基本となり、

導入不可な規模は LINE導入    これが いまどきだよ

 

長文や長時間の動画は そこまで集中できない能力の不足もあるが そこまで力を注げない情報量の多さがあるのではないかとおもったりする。

 

そういう中で このブログを読んでくれーる方にはとっても感謝してるよ。

 

これから

これからどうして生きて行けばいいんだろう

って人 かなり多いと思うんだよね。いつも思っている人やたまに思う人などなど

芯がある人でさえ 不透明になりがちな時代 前提が無制限に簡単に崩れ去る時代

 

 

なるようになるし って 考えない人 

悩み考える人

行動する人 

など いろいろだけど 未来を思い不安を感じる人は多いと思う。

というか 思わない人のほーが稀か

 

大きな夢とか目標が漠然 とも持ち合わせて無い人は 当然そうなりがちだし 

漠然としたものがあっても じゃあどうすればむかえるのかわからない人など

目先のやることがいっぱいあっても ただ ルーチンを繰り返しているだけの毎日

特に可も無く不可もない場合でも

それがなければ ふっと我に返ると 不安になる。

 

それでそうしているうちに ただ時間をだらだら失って・・・・とならないように

どうすればいいか なんだけど

そんな簡単な答えってのがあるわけがないと思う。

 

夢や目標はとりあえず忘れないように毎日書いたり読み返すことは必要だし

じゃあ夢のない人はどうすればいいかなんてよくわからないし

でも 最近 これはするようにしているのは 毎時毎時というか一日何度もある 目の前の二択三択は なんとなくとか流れで選択するのではなく きちんと考えて選択するようにはしてる。

 

そして 昨日は終わってしまったし 今日ももうこんな時間 12時前

 

 

 

 

引越

引越し回数は 30回以上やったよ。

仕事場の移転もあるし 家の移転もあった。小さな隣町レベルの引越しは気分転換にはなったが 対して人生を変える事はなかったんだよね。

家や仕事を変えたら人生は多少は変わる。

今まで培った習慣で自動的に毎日を過ごせる快適な空間から抜け出さない限りほぼ何も変化しないが ちょっとの変化はたかがしれている。

 

もし、全て振り切る用意があれば 遠距離の引越しは人生を激変させるよ。

 

 

長距離の引越しは 人生を変えた。

言葉が違えば思考や慣習が違う。もしかしたらその逆がはじまりなのかもしれないが 慣習というか 空気感 というものは 言葉使いに影響を及ぼす。

一言ぐちゃぐちゃいわず 流す なぜなら そんなくだらないことで時間をさくより さっさと次いくほうが懸命という空気感的な・・・・

 全て適応せざるえなかった。

時間はかかったが なじむ程度にはなった。

いつでも下品になることはできるが 下品であることが不愉快だと思えるようにまでなってしまった。おれはどこにいったのか? 

 

ある時 思いったって仕事のスタイルも 家も変えた時もあった。

いやでいやでしかたなかったが ここで思い切らなければ 今までの延長線上にしか人生が続きかねなかった。

正解だったかどうかは 不明だけど 人生は おそろしく変化してしまった。

もう二度とあの頃の自分には戻れない程に あの頃のおれはもうこの世にいないんだ 探してもいないんだというほどに・・・

 

ある時 わけあって また中距離を移動した時もあるけど

ここで少し落ち着いて 冷静に今までを振り返ることができるようなった。

働き方 仕事観 人生観 全部変えた。力をぬいた。

 

この間にもいろいろあるのだが 距離が長くなればなるほど人生が変化してしまうことは学んだ。

だからといって引越しありきは考えものだけど

 

日本もいろいろな地域があり。

世界も広い。それだけ人生の可能性があり ちょっとがんばれば 人ってかわれるもんだなと つくづく思う。

 

 

 

記憶

音楽なんて聴いてないで 勉強しろ

なんていわれても

音楽は大事だと思う。

 

加齢を重ねても その音楽を聴けばなぜかよくわからないが 

当時の切ない思いや感情、風景を まざまざ と思い出させる。

 

よほど  どー田舎でない限り

生活圏の風景は 時間とともに変化し 記憶をとどめない。

懐かしいあの店が 大人にいけば全然しょぼかったという誤認もあるし

町そのものがなくなったり 通いつめた店がなくなっていたり

一番つらいのは  お店がシャッターになっていることかな

そんな風景に担保されるよりも音楽は永遠だ。

 

たぶんビジュアル的な写真程度の記録であれば 音楽のほうが記憶が長持ちする。

(誰が聴くの?みたいなLPなどが今でも大事にされるのはそういう面もあると

思う。だから その年に流行った曲は押さえ 軽く聴いておいて無駄はない都さえ思う 同世代の共通体験だからね。

何歳に リズム天国を聴いていたとか(笑)大事かも)

 

但し、どうしても 記憶というのは 引き出すたびにその引き出した時の記録が脳内の記憶に残り 意味がどんどん書き換えられていく。映像は残酷でありのままメディアに記録し永遠にループする。自分の心のフィルターのない映像。

 

音楽は 感情を脳内に記録する。

改変した思い出は淡くほろ苦く 心地よいフィルターがいつまでも脳内ループする。

 それは今の自分にとり都合のいい記憶として 再編され 再ループする。

記憶はさらに美化されていく。

 

いいかわるいかは横に置いて

いろいろな思い記憶が ある時ひとつの道として 理解でき、

人生の航路らしきものを認識できた時 自分が何者か ちょっとわかるような気がする。  万感の思いというのは誰もがいだくのはそのあたり 

ここまできたんだ。ここまで歩んできたんだ。

ああ こういう旅だったんだ って知る。

 

 

記憶はあやふやで でもあやふやだからこそ 人は救われる。

なぜなら よくない思い出も いい思い出も 全てそこに意味付けができ 

だからこそ 今 こうしていられるんだ こうできたんだと思えるからなんだよね。

 

 

記憶は思い出は 所詮一過性のものだけど。そういうことを 振り返り始める年代に突入するのは  みんないくつくらいなんだろう。

 

22歳ぐらいで世の中 をわかったつもりになり、回顧しはじめた記憶があるけど

なんにもわかっちゃいなかったな。 

でも そういう 22歳の記憶でさえ カラフルに 鮮やかに  詳細に 目前に描き 思い出すことができるのも 当時のよく聴いた音源があるからなんだよね。

 

音楽は再現性があり、同期するように 記憶は再現され 自分の中をループする。

 

当時の仲間や友達 その他 対象者は 誰も ここにはいないし 

この世にもいない人も年々増えていくが もしかしたら 都合のよい記憶がループして

いる状態が一番いいのかもしれない。

だからこそ 二度と会うこともないだろうし 会っても深く交わることはないだろう。

自分にはそういう生き方しかできなかったけれども

だからといって孤独とは思えないんだよね。

 

指標

人は記憶のもとに 認識 理解 選択や判断ができると思う。

 

過去の記憶に基づき 毎時繰り返される場面場面の状況を認識 その他していくわけだと 考えるのね。

 

それは 時間的尺度も同じだし 人間に対する見る目 言葉の理解などなど けっこう広範囲にわたると思う。

 

出来事の 素の現実 ゼロ距離的事実 のまま判断できるわけではなく 

過去の記憶に基づくものだから 

 

どうしても その人間のフィルターがかかる。 

 

だから 同じ出来事を見ていても たとえそれが 小学生 中学生であろうとも 違うように見えるということをよく考える。

 

それを考えると 人って 同じ景色をわかちあえないものんだなあ とつい考え込んでしまうのね。

 

仮に ある出来事が 重なっても 全てが重なりあうことはなくて

一緒に同じ方向をみていくだけで せーいっぱいなんだろうなあ と思う。

 

 

右肩上がり的な思想

題名をインパクトにあるもにすれば アクセスが伸びるのはわかっている。

でも どちらかというと インパクトを少なめにするようにしている。

理由は イやだから

とにかくアクセスを伸ばせば そこから先は担保される的なやり方は好きじゃない。

だから いまどき世の中にあふれるページビュー的なものや 右肩上がり的な思想は などなど 大嫌いだ。

 

今まで日本や世界に蔓延してきた右肩あがり的思想は非常に問題だと思う。

当たり前のように 前年度比というけれども 数字の取り方を変える時代になってきていると思う。

数字だけが選考した右肩あがり尺度は まったく実体を伴わないと思う。

そうでないと これからは今までよりもよくないものにしかならない。

しかし 従来の時代よりも 昨今は時間を有意義に使えてとても便利になった。

若い子は今までと違い お金がないから的なことをいわれるが

過去に比べて 今はとても幸せだと思う。だって 普通出会えない人とであえたり

1つのことを調べる時間も短縮され ちょっとの時間でできることが多くある。

少子化となり これからさらに 数字上は下落だ。

しかし それは 今まで 旧時代の思想だ。

 

尺度がかわれば 評価はかわる。

政治家メディアは右肩上がり思想が便利だから使う。 都合がいいから使うだけ。

自分たちの欲やメリットの為 そういうだけ。

 

でも そんなものにけっしてたぶらかされたらいかんよ

可能性

YOUTUBEのTEDを見た。ZONEの話なのだが

僕には 6分35分あたりからの シューマッハのコメントにとても

関心をもった。

 

もうこれ以上やる事がないか 

 

だめかなあ と思うこと できないと思うことは 

毎日あるが これ 非常に身になった。

 

 

 

 

 

6分35分あたりから

www.youtube.com